谷庄創業者初代・庄兵衛(のち庄平)(1835-1904) 創業者
初代庄兵衛は、加賀藩家老長大隈守に仕えた武士であった。明治維新後、道具屋を始め、明治16年(1883)柳町(現在の本町2丁目)に店を構えた。時あたかも武家よりたくさんの道具が売りに出され、連日の如く競り市が開かれ、多忙を極めたという。長州征伐や北越戦争に従軍した武人らしく、武家の商法ではあったようだが、商運があったのか、店は順調に発展し、柳町から安江町へ新築移転するまでになった。
二代・庄平(1871-1945)
幼名・喜太郎。明治21年(1888)粟崎の本保家から養子入りした人物であったが、初代庄平のもとで12年間におよぶ厳しい修行を積んだのち、家業を継ぎ、大いに発展させた。特に明治半ば以降は蒔絵の需要が高まり、藩政期からの確かな技術に基づいた精巧な蒔絵製品は、谷庄の主力商品として、その発展の原動力となった。大正7年(1918)、東京、大阪、京都、名古屋に次いで金沢美術倶楽部を創設すると、その初代社長に就任し、業界の発展にも尽力した。事実上「谷庄」の基礎を築いたのはこの二代目庄平であった。
三代・庄平(1889-1989)
谷庄初の総領息子として生まれ、名を啓吉といった。啓吉は金沢商業学校を卒業すると、東京、大阪、京都などの大都市で開催されるオークションに参加して鑑識眼を養い、やがて前田家の古美術品鑑定の依頼を受けるまでになった。また、「電力の鬼」とよばれた松永安左衛門(耳庵)翁の知遇を得、谷庄を全国的な美術商に成長させた。昭和2年(1927)の彦三の大火で安江町の店舗が焼けてしまったのを機に、現在の十間町に新店舗に移転した。木造モルタル造りの洋館と和館が並立した特徴的な店舗は、平成16年に国の有形文化財に登録された。
四代・良治(1920-2012)
三代目庄平の次男。16歳の時に金沢商業学校を中退し、病弱な兄に代わって谷庄を継ぐべく、京都の古美術商「善田昌運堂」へ修業へ出た。兵役までの4年間、いわゆる「丁稚」の立場で修行を務めた。除隊後、昭和22年(1947)から家業を継ぎ、戦後~高度成長の時代に、地元金沢はもとより、全国のお客様に可愛がっていただき、昭和37年(1962)には、東京へ進出。はじめ赤坂のち銀座に店舗を移し、徐々に「金沢の谷庄」の名を全国に浸透させていった。三代目庄平の頃より、茶道古美術を主に取り扱っていたが、四代・良治より中国陶磁などの鑑賞陶器も取り扱うようになる。
五代・庄市(1944- )
四代目良治の長男。慶應義塾大学を卒業後、東京の「幸画廊」で修業し、昭和59年(1984)より家業を継ぐ。四代目が進出した東京店を大いに活用し、「バブル」と呼ばれた空前の好景気の中でも、時流に流されないしっかりとしたものだけを扱い、「信用第一」の強いポリシーのもと、実直に商売を続けた。その結果、徐々に浸透していた「金沢の谷庄」というブランド・イメージを確固たるものとし、全国のお客様の信頼を獲得していった。また、二~四代目同様、(株)金沢美術倶楽部の社長も務め、美術業界の発展にも大きく貢献。茶道隆茗会の代表理事、淡交会石川支部の顧問、大師会、光悦会などの全国的な大茶会の世話人を務めるなど、茶道文化の発展にも尽力している。
六代・庄太郎(1971- )
五代目庄市の長男。慶應義塾大学を卒業後、東京の美術商「池内美術」で5年間修業。平成11年(1999)より金沢に戻り家業に従事。平成22年(2010)より、代表取締役。現在に至る。